令和8年
お寺の掲示板
5月
他者と比較して優越感を持つことや、他人より多くの物を持っていることで感じる幸福は「相対的」なものであり、自分より優れた人が現れた瞬間に崩れてしまう不安定なものです。
しかし仏教で言う真の喜びとは、自分自身との比較にあります。
人は悲しみが深ければ深いほどその悲しみを乗り越えた時の喜びは絶大なるものです。
人生という荒波の中で私たちはその都度その都度困難と向き合い、その壁を超えていかなければなりません。
日々の努力を通じて過去の自分よりも少しずつ向上していることを確認できる喜びこそが誰にも否定されない「絶対的な喜び」ではないでしょうか。
またそこには、他者との比較からの解放があると思います。
4月
もともと御講は、
本願寺第8代の蓮如上人が、
毎月25日は法然聖人のご命日、
28日は親鸞聖人のご命日に行わ
れていたことが起源です。
その当時の蓮如上人の願いは、
『そもそも毎月両度の寄合の由来はなにのためぞといふに、さらに他のことにあらず。自身の往生極楽の信心獲得のためなるがゆゑなり。』
つまり、
法然親鸞ご命日の両度の際は、ともに仏法を聴聞しましょう。
この事以外にはなにもありません。
このように蓮如上人は、私たちへお念仏をすすめて下さっていると同時に、御講を通して何を願っておられたかがうかがわれます。
当時(室町時代)この蓮如の願いが全国へと広がっていったのです。
しかし時代ともに、御講の趣旨が変わってきたと続けて御文で嘆かれています。
『殊に近年は何処にも寄り合いのときは、ただ酒・飯・茶なんどばかりにて、皆々退散せり。これは仏法の本意には然るべからざる次第なり。』
とくに近年は、どこでも集まりのときには酒•食事・茶だけで終わり、皆すぐに帰ってしまう。これは仏法の本来の趣旨ではない。まことに悲しいことだ。
改めて講(集まり)とは如何なる場であるのかということ。
その事を蓮如上人のお言葉に耳を傾けていくということが、
大切ではないでしょうか。
3月
人生において「進む」ということは、自分にとって都合の良い事が訪れる事。
同時に「下がる」という事は、自分にとって都合の悪い出来事が訪れる事だと言えるでしょう。
30代で急に病気で旦那さんを亡くされた女性がいます。
深い悲しみの中でその方は、次のように語られました。
「主人が亡くなったおかげで、私は人生のきびしさがわかりました。
そして、その悲しみの中で私の人生が少し深く、豊かになったような気がします。」
人間はとんとん拍子に物事が進んでいる時よりも、
困難が訪れた時、あるいは人生のきびしさを身をもって知らされたときに、
人生は深まり、幅をもたせるのだと教えられます。
この方の言葉は「下がる」歩みを否定するのではなく、
「下がる」歩みにこそ学んでいくということを仰っていると思います。
悲しみの中、生きる辛さの中にこそ、人は本当に大事な事に出遇うのかもしれません。
2月
「人の悪いところや欠点は目につきますが、自分自身の欠点に気づくことは難しい。」
と蓮如上人は言います。
この言葉は、教えに照らされ自らを深く見つめられたなかから、出てきたお言葉だと言わなければいけないと思います。
日頃の私たちの生活はどうなっているでしょうか。自分が悪いと思っていても素直に、悪かったと口に出して言える方は本当に強く、立派な方だと思います。
しかし、わたしを含めなにか問題が起こった時、真っ先に思うのは自分ではありませんようにとか、自分のことは棚に上げて、相手に責任を転嫁したり、目の前で悲しんでいる人がいても、 自分じゃなくて良かった、こういった危ういものがわたし達の内面には常に潜んでいます。
それは同時に人間といういきものの弱さそのものだといえます。その根底にあるのが、わたし達はありのままに物事を見ることが出来ないということでしょう。これを仏教では「無明」と言います。
常に自分にとって都合の良い様に、真実を捻じ曲げてでも自分の正しさ、正当性を保とうとするのがわたし達人間です。
それは自我というものにとことん執着し、現実から目を背けている在り方、生き方と言えます。
しかし、仏法を聞くという事は、決して知識を蓄えるという事では無く、知識を蓄えて他者を裁いている無明のわたしに気づかされるということではないでしょうか。
善導大師は「経教(きょうきょう)はこれを喩(たと)うるに鏡のごとし」と仰っています。
お経が教えとなって、我が身に響いてきた時、それは私の内面を映し出す鏡になるんだというのです。
毎日私たちは鏡を見て襟を正しますが、本当の意味で正さなければいけないものを、善導大師は教えてくださっているのではないでしょうか。
またその鏡に映し出される我が身のすがたを、お経に教えられ続けることの大切さを、蓮如上人は教えてくださっています。
1月
6月
仏教では人生とは苦(老病死)であると教えます。
ここでいう苦とは、人生は思うようにはならないということだと思います。
しかし、私たちはなかなかその苦の事実に立つ事はできません。逆に、その事実に蓋をしているのが私たちの常では無いでしょうか。死ぬなんて縁起が悪いとか、いつまでも健康で元気でいたいなど、その気持ちは誰しもが願う事でありますが、しかし、現実はそうはいきません。いくら神社にお願いをしても、どれだけ自己管理していても老病死ということは避ける事ができません。これこそお釈迦さまのいう苦しみなのです。
また、私たちの身体ひとつとってみても、元気で体が動くうちは良くて、動かなくなったら役に立たないとか、使い物にならないなど、真実を捻じ曲げるところに、自分の体にも価値付けしていく我々の危うさがあります。全部自分中心です。
しかし、余生から与生へという事は、仏の智慧、つまり南無阿弥陀の一声一声のところに、我々の生、いのちそのものの主体が転換されるということを言っていると思います。
それは言うまでもなく、念仏申す一念のところに、自分中心に物事を量っていた我が身に気付かされると言うことでしょう。
命ある限り生涯現役です。世間の価値観に埋没してしまわない為にも、念仏申して、辛い事も悲しい事も阿弥陀さんとと乗り越えていく道以外、人生という荒波を超えていくということは無いのではないでしょうか。